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あまびえ様 [調べ物]

 ネットで最近騒がれている”アマビエ様”。 なんだなんだと調べてみると結構面白い。 妖怪というには出現が結構新しい。 謎という割にはメッセージが具体化している。
----- 原文 -----------
肥後国海中え毎夜光物出る。所の役人行見るに、づの如く者現す。私は海中に住、アマビヱと申す者也。當年より六ヶ 年の間諸国豊作也。併し、病流行、早々私写し人々に見せくれと申て、海中へ入けり。右写し役人より江戸え申来る写也。 弘化三年四月中旬
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---- Wikipedia より引用 ------------
江戸時代後期の肥後国(現・熊本県)に現れたという。この話は挿図付きで瓦版に取り上げられ、遠く江戸にまで伝えられた[3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%93%E3%82%A8
弘化3年4月中旬(1846年5月上旬[注 2])のこと、毎夜、海中に光る物体が出没していたため、役人が赴いたところ、それが姿を現した。姿形について言葉では書き留められていないが、挿図が添えられている。その姿は人魚に似ているが、口は嘴くちばし状で、目は菱形、黒目(虹彩)と白目があり、耳らしきものもある。髪と思しき直線的なものが頭部から伸び、その長さは体長に等しい。首から下には胴体があるが、鱗に覆われた魚体で、しかし、腕は見えない。これは描き手の稚拙さによるものか、髪と思しきものに隠されているだけなのか、それとも本当に無いのかと、可能性は様々で全くの不明と言うほかにない。胴体の下部、人間なら下半身にあたる部分は、尾鰭おびれのようにも足のようにも見える部位が三股に分かれており、体はその三股によってか波間で立ち泳ぎをしているように見える。

その者は、役人に対して「私は海中に住むアマビエと申す者なり」と名乗り、「当年より6ヶ年の間は諸国で豊作が続くが疫病も流行する。私の姿を描いた絵を人々に早々に見せよ。」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行った。
-----引用終わり------------

時は江戸時代後期、1846年5月上旬 熊本。 
確かに江戸時代までは妖怪とかは結構信じられていた。 とはいえ江戸時代後期は外国から船が結構来ていて、燃料くれ、食料くれ、開国しろとかあっちこっちから言われていたのだ。 ちなみに大政奉還は1867年だ。 はやり病といえば西洋ではペストが有名だ。ペストの歴史は長い。紀元前429年、西暦166年~180年、541年~542年、1348年~1400年、1630年ごろ と出てきては終息し、また出てきては終息しの繰り返しである。 1630年ごろのペスト医師の防護服はくちばし状のマスクをしておる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%88%E5%8C%BB%E5%B8%AB
中にいろいろ詰め物をしてペスト対策をしておるようである。ペスト自体はネズミ(本当はのみ)→人の感染であるが、肺ペストになると人→人感染であり、飛沫感染であり、なるべく全身を飛沫からガードする防護服が重要である。 日本では江戸時代までは特にペストの流行はなかった。いくつか多発したのは明治時代以降である。(1896年~1927年)

 さてアマビエ様に話を戻して、なぜに彼は自分の姿を描かせて病が流行ったらみんなに見せろと言ったのか? ここでそれを考えなければいけない。
私の想像では、彼は一度欧米に渡って色々勉強してきた日本人で、(ジョン万次郎は1851年にアメリカ船に乗せられて日本に戻っている)欧米でペストを知った彼はペスト医師の姿で妖怪のふりをしてその姿で印象付けたのだ。 豊作が6年も続けばネズミも増える。交易で外国からネズミもやってくる。 肺ペストの場合は人々はこのアマビエ様の姿を思い出して、くちばしのように口、鼻を覆い被せるようなマスク。目をガードできる大きめの眼鏡。うろこのように撥水できるマントをまとう。ということを印象付けようとしたのではないだろうか・・・ 

以上。

関連画(自作)
↓ 甘エビ
amaebi.jpg

↓ あまびえ(あま冷えてないビール)
amarihietenaibeer.jpg
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鳴き砂 リベンジ [調べ物]

 先日行ってきた鳥の海(右岸、南側)の鳴き砂でもう鳴かないと書いていたが、もう一度リベンジした。 ネットで検索すると鳴らせ方が難しいようだ。 


Recording : ZOOM H2 (wav, 48kHz,24bit, Stereo )
波形処理 : Studio One 3.5 Artist
ノーマライズ→350Hz以下カット→コンプレッサーで音圧を上げる。
mp3:170~210 VBR

これで鳴っていると思われる。 他の砂浜ではこういう音はしないので多分。
摺り足でしつこく擦る。 Youtubeで琴引浜(京都府丹後市)での動画だともっと簡単に泣くのだが、ここはしつこく擦らないと鳴かないようだ。

鳴き砂 スペクトル2.jpg

1kHz - 2kHz で鳴っているときに反応している。

nakisuna 1.jpg
スケール(メモリ:0.5mm)
珪砂が多く有機物が少ないほうが鳴るらしい。


やはり摺り足だ。 摺り足差し足忍び足だ。2つ目3つ目は音が出ないが。摺りアジ刺しアジしのび味だと最後は演歌だ。アジのすり身はあまり聞かないか。日本酒が合う。いや、また馬鹿なことを書いた。



他に鳥の海の左岸(北側)とか山本町の磯浜海岸でもやってみたが、全く鳴らなかった。

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Studio One の 4 が出た。 メールでは ”水曜0時びっくり報告があるからサイトのほう見てねー” と思わせぶりメールが来ていたのだが。 しかし、私を驚愕させるほどの中身ではなかった。


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品井沼はどこだ [調べ物]

いつも見る太白山ってのが仙台市太白区にはあるんだが、 生出(おいで)地区の生出が森と呼ばれていた。 
 
太白山 地図.jpg

太白山.jpg

 伊達藩時代青葉城から見て丁度宵の明星が落ちる方向に合った山なので、(中国の漢詩から)太白山となった。 その太白山の伝説で、太白山が出来たときに丁度品井沼が陥没して沼になった・・・という伝説もある。 その品井沼って何処だ? と色々調べてみた。

JR品井沼駅というのは前から知っていたのだが、東北本線の松島から下って2つ目の駅だ。 その辺を探しても一向に品井沼など見つからない。 もう無いのだ。 全く無いのだ。 調べてみると宮城県で一番大きな沼であったそうなのだ。 米作の大規模な生産のために干拓をして全部田んぼにしたのだ。(最近はじゃがいも)
 江戸時代に入って、仙台藩は米を江戸に輸出するためあっちこっち新田開発をして米の生産を大きくした。 
この品井沼干拓事業が始まったのが1655年。 (それと北上川を仙台湾へ流す事業とか、仙台湾一円に内堀(貞山堀)を作る事業とかもやってるからね・・・)
これは国交省の推定図をちら見して書いたのだが、
品井沼1.jpg
特に大雨とか降ったら大きくなっただろう。 で、これを八郎潟のように田に代えたのだ。
先ず 吉田川からどんどん沼の水を出していく。 もちろんこれには限界があるので、まだ沼は残っていた。

次に元禄6年(1633年) 品井沼の水を松島丘陵にトンネルを掘って松島湾に流す大事業を開始。
品井沼2.jpg
元禄潜穴の入り口側。
元禄潜穴入り口-1.jpg
もちろん江戸時代、明治時代とこの元禄潜穴のメンテナンスにかなりの人と金は使っている。
元禄潜穴は江戸時代でかなり老朽化して使い物にならないということで、次に明治43年(1910年)に明治潜穴を作る。
明治潜穴 入り口側
明治潜穴入口.jpg
出口側
明治潜穴出口.jpg

しかしこれでもまだ水害はひどくて、台風のたびに相当な被害を受けていて、更なる改善で、
吉田川は独立させ、品井沼の鶴田川を吉田川の下にトンネルを掘って通す。 吉田サイフォンを作った。
1935年~   完全完了は昭和52年。
品井沼3.jpg

吉田サイフォン上流側
吉田川サイフォン入り口-1.jpg
吉田サイフォン 下流側
吉田川サイフォン出口.jpg

なが~いなが~いプロジェクトなのであったのだ。 とはいえこれ以降も台風とかの被害は受けているので、そのほかにも対策を施している。


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